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嵐絵巻 その3

1995-1999

オーディションを通過するとジャニーズJr.という研修生のような立場として、主にダンスレッスンに通うことになる。大野はあっという間にダンスの虜になった。ちょうど1年後の’95年秋には櫻井も事務所入り。友人との軽いノリに過ぎなかった応募は、いざ合格したことで大ごとに発展した。「まず本気でやるのかどうか、家族で話し合って、次に親と一緒に校長に掛け合って、ようやく了承してもらえて。だから無理にでも学校行くようになった」Jr.になって何が変わったか、と訊いた時の「むしろ何も変えちゃいけなかった」との答えが、13歳の意地を窺わせる。「Jr.の中では異質だったね、学校行事を優先させる奴って。試験前の一ヶ月間は活動を休んでたし、1回ドラマの話をいただいたんだけど、それも断わらざるをえなかったし。けど、ひろい世界から色んな奴が集まってきてるJr.の社会が俺は面白かった」

約半年後、同い年の松本、二宮はまたしても同じ時期に足並み揃えて事務所の門をくぐる。が、片やアイドルという仕事に興味を持ち、小学校卒業と同時に自ら志願した松本、片や「5千円あげるから受けといで」との母の言葉に釣られ、渋々オーディションに参加した二宮、と動機はまるで正反対。

ほどなくして下総のかしましボーイ・相葉もお出まし。「最初に相葉ちゃんを見かけた日のことは覚えてるよ。『ジュニアゴールド』のリハーサル室にひとりで入ってきて、すごい不安そうにしてた。俺にも彼にも、厳密な意味での同期、っていうのがいないからね」(松本)入った時期が近く、仕事でよく組まされていた松本、二宮、相葉の3人以外にも、Jr.の交流は様々。「松潤とは仲良かったね。休みの日も本当に良く遊んでた。松潤の中学の卒業式の日、朝松潤が出て行って帰って来るまで松本家で待ってたぐらいだから(笑)」(櫻井)「自分でお金払って観た初めての映画は、中3の時の『ディープ・インパクト』。翔ちゃんともうひとりのJr.と3人で行ったんだけど、俺、映画館が落ち着かなくて、トイレばっか行ってた。一番後輩のくせにチョロチョロと」(二宮)

徐々に名前が知られてくるにつれて、日常生活にはそれなりに変調も。「中学は良かったけど、高校は結構辛かったな、最初から‘ジャニーズの相葉’って見られ方するから。だから高校時代の友達、全然いないです。まぁ、もし逆の立場だったら俺も‘あの子ジャニーズJr.なんだよ’とか言っちゃうかもしれないし、しょうがないんだけどね」(相葉)

他のメンバーから「スゴイ人がいるもんだな、と思ってた」(櫻井)「才能は尊敬してたけど、あの人には1回も敬語を使ったことない」(二宮)「喋りづらくて俺の中ではレアな存在だった(笑)」(松本)などど一目置かれる大野はというと、はるか京都の地で『ジャニーズファンタジーKYO TO KYO』に出演していた。大野は約2年間、京都に居を移し、このステージで地道に経験値を積む。踊りを究めたいと願っていた彼にとって、東京では回ってこないメインロールで毎日踊れるという話は単純に魅力的だった。

ところが、開幕当初は全国からの観客で賑わったものの、次第に客足は衰えていく。「毎日5回公演あるんだよ、お客さん入らないのに。ひどい時は5列目までしか埋まってなくて、見渡す限り真っ暗。何やってんだろう、ってワケ分かんなくなって泣いたりして・・・若かったからね。今思えば、その5列目までの人たちにすごい有難みを感じるけど。うん、今なら、ひとりでも喜んでくれる人がいれば歌えるし、踊れると思う」すでに高校は中退していた。’98年暮れ、2年目の京都遠征を終えた時、ダンスは彼自身の目指すラインに到達した。納得出来たから、事務所を去ろうと思った。「就職するならイラストレーターがいいな、何とかなるだろう、って(笑)。踊るのは趣味でどこでも踊れるしね」

高校3年の櫻井にとっても、Jr.の活動は高校卒業時に辞めるはずのものだった。二宮は高校へ進むかアメリカで映画の勉強をするかで迷い、どのみち芸能界に残る気はなかった。5人中3人までもが事務所を去るつもりだったのである。

既存の価値観を捨てろと20世紀の終わりが言っているかのように、’95年以降は忘れえぬ天災、人災が続いた。実際、二宮の証言によると「将来のことをあまり深く考えなかったのって、ノストラダムスの大予言を信じてたせいもある。俺とリーダーでマジ信じてたの。’99年の大体5月あたりから、急な土砂降りが来るたびにリーダーが‘あぁ、来たんだ、死ぬんだ、、、’って(笑)」

’99年、世界の終末の予言は当たらなかったが、5人にとってJr.時代の終末は訪れた。グループ結成、及びCDデビュー決定の報である。国中が鬱の周期に突入した矢先に響いたキャッチーなメロディーは、人々に受け入れられ、ミリオンセラーを打ち出した。「最初は俺と松潤とニノの3人だけで‘嵐’だって言われて、3人で動いてたの。デビュー曲も『Reach out for my dream』っていう全く別の曲だった。振り付けやらレコーディングやらの段になって、大野くん、相葉くんが加わったわけです」(櫻井)

2000-2004

「最初の頃ちょっと不安だったのは、結成するまで口きいたこともなかった相葉くんとリーダーとの距離。相葉くんは一生懸命歩み寄ろうとするんだけど、リーダーはほら、超自然体な人だから(笑)。けど、今となっては嵐の中でも1,2を争うぐらい仲いいんじゃない?」(二宮)

大勢のJr.の中から選ばれることに関して、思いは様々。Jr.同期生を持たない松本は「同期に一番近い二宮、相葉の2人が一緒だったことで心強かった」と。大野は大野で「同期近辺は結構辞めちゃってたからなぁ。俺も長居しすぎたな、ぐらいの感覚だったかも」と率直に明かす。

グループ結成に際して、嵐に最初の意思はない。しかしその存在のあやふやさは、時代性と彼らを結びつける重要なアイテムでもあった。楽曲にも散見される、未熟であることの尊さや無常感はひどくセンシティブな印象を彼らにまとわせ、それこそが後の反転攻勢を大いに助けた‘仕事の細かさ’の裏面だったのではないか。奇跡的なのは、そんなモラトリアムの気配をいまだ彼らが失わずにいることだ。実力や評価とは別次元で、足りない何かを求め続けているような、永遠に完成しない少年の輪郭。どこか寂しくて儚い輪郭。

が、そんなイメージは見当違いだったかもと疑いたくなるほど嵐のトーンは常に陽気だ(この多層構造がまた深い)。’99年の大晦日には、日付変更線を行き来し、2カ国で2回の年越しを迎えよう!というテレビの企画に大挑戦したり。「2000年問題で飛行機が飛べないかも、って噂あんのに、大丈夫かよ!?って言い合ってた」(松本)

’00年4月には待望の1stコンサートを開催。「持ち歌もない中、お客さんもよく来てくれたもんだよね。俺が観客だったら不安でしょうがないもん」(二宮)ここからの2~3年は武者修行の如くコンサートの場数を踏む。春、夏、冬と、もちろんその都度メニューを変えつつ。櫻井は後日、埋まらない客席を見て悔しかったと当時を述懐しているが、京都での経験がある大野は「半分入ってれば大丈夫」と大らか。この時期は互いの思いを語り尽くすことによって「5人が同じ気持ちでやれてることが分かった」(大野)時期でもあった。

’02年は、嵐の音楽性にとって大きな転機の年となる。まず一つ目に、彼らのために設立されたレコード会社ジェイ・ストームに移籍し、シングル『a Day Our Life』からの実験的意欲溢れる楽曲、映画を次々放っていったことがある。「たとえ商業的には損してもやってみよう!って意思を強くする上で、堤幸彦さん(『PIKA☆NCHI』監督)はまさに適任だったと思う。出会えた俺達は運がいいです」(二宮)

また、この年制作された楽曲『ALL or NOTHING』を皮切りに、櫻井自身がラップ詞を書くようになったことにも触れないわけにはいかない。後年('06年)、ほぼ全編ラップによるメッセージソング『COOL&SOUL』間奏に忍ばされた彼の語りからも、この転機の意義深さは察せられる。「『COOL~』を聴いた人に、‘嵐・櫻井翔’名義のラップが始まる’02年のアルバムから聴いてもらおう、って作戦だったの。そもそもデビュー時に、何でラップ担当になったのかは謎のままなんだけどね(笑)」(櫻井)、「『COOL~』は違うけど、嵐自身のことを書いてもらう時、僕らが言いたいことを翔くんにメールで送ったりするんです。で、それを彼が5人分まとめるの」(相葉)

‘皆さんが大事です’‘みんなのことを愛してます’、今も昔もアイドルの殺し文句だ。が、‘こういう風に大事です’‘こんなところを愛してます’と、自らの言葉による手紙をきちんと届けることはまず嵐にしか出来ない。それも、詩的で大人の鑑賞に堪えうる手紙を。先に述べた‘仕事の細かさ’はここに顕著だ。

二宮、松本が高校を卒業した’02年3月、相葉が肺の病気にかかり、入院と手術を経験する。「実はメンバーにも事務所の人にも言ってないんだけど、最初は1ヶ月入院って言われたの。結果、無理矢理5日で退院したんだけど、言われた時は‘嵐でいられないかも’って思った。ぶり返す率も高いしね」(相葉)「朝起きたら、マネージャーからスゴイ数の着信歴があって、入院のこと知って、近々の仕事をどうするか相談して。ウチみんな優しいからさ、ああいう時、下手に声を掛けられないんだよね。代わりに、仕事をちゃんとやってあげなきゃな、って思った」(二宮)

幸いなことに相葉も全快、同年7月からはバラエティタレント・嵐にとって大恩ある番組『Cの嵐!』がスタートする。現在の『宿題くん』へと至るスタッフチームによる、シュール&マニアックが売りの傑作シリーズだ。嵐の感性に趣旨が見事にはまり、番組は笑いと新しさに敏感な深夜ならではの視聴者層をガッチリ掴んだ。他4人にツッコむことで、嵐の取扱説明書とでもいうべき役割を担ってきた二宮は、「ボケって、ツッコまれて初めてボケだと俺は思うの。ツッコミの声はテレビ観てる人の声だからね」と的確。メンバーの素材の良さと、ファンが欲するその活かし方を熟知した彼だからこそなせる業だ。「‘嵐ファンのトップ’?光栄です(笑)」

一方で、この頃ファンを驚かせたのが、松本まさかのキャラ変え!嵐内‘やられキャラ’から‘男前キャラ’への華麗な変貌は「意識的なもの(笑)」と本人もキッパリ。「覚えてるんだよ、変わった瞬間。楽屋に入って松潤にウィースって挨拶したら、何か超素っ気ないの。馴染むまでに時間かかったよ~(笑)」(櫻井)

いつの時代も孤高の大野は、デビュー後もたゆまず数々の舞台をこなし、俳優、シンガー、ダンサーとして幅広い表現力をものにしていく。’04年、櫻井、松本らと出演した舞台『ウエストサイドストーリー』に際し、初めて受けた本格的なボイストレーニングでは、声の変化を実感。「昔より高く、細くなったと思わない?普通は逆だよね」と笑う。

’02年頃からは全員それぞれにラジオ番組を獲得し、映画やドラマ、バラエティーと、個人の活動も順当に広がりを見せていく。櫻井は大学を卒業、死守した学業両立生活もゴールとなった。

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コメント

金欠(悲)で雑誌が買えないので、大変助かります。これからもUPお願いします。

投稿: ポポロン | 2009年8月10日 (月) 02時06分

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